鍋島直正 侯

先日久しぶりに近くを通ったのでお目当てのものを見に佐賀城へ。



今年3月に生誕200年を記念して建立されたというこの銅像。

肥前佐賀藩の10代藩主、鍋島直正、号は閑叟(かんそう)。

幕末動乱期の佐賀藩を率いて、明治維新を迎える時には『薩長土肥』
という4強の一角に肥前佐賀藩をポジショニングした名君中の名君の話。

実は佐賀県民の間でも・・・残念ながら、土佐の坂本龍馬とか薩摩の
西郷隆盛、大久保利通、長州の高杉晋作や桂小五郎(後の木戸孝允)
ほどのスター性がないために、あまり知られていない人物です。
佐賀では早稲田の創設者で唯一の総理大臣経験者大隈重信のほうが
はるかに有名です。

佐賀県民でありながら、本当の意味で知ったのは高校時代に読んだ司馬さん
の小説からではあるものの、知れば知るほどそのすごさが分かって
くると言う意味では何となく控えめな佐賀の県民性なんかにも通じる
ものがあるのでしょう。

実はこの場所に来る車中の中で、しみじみと感じたことを一つ。

17歳で家督を継ぎ、破綻寸前の藩を建て直し、海外の脅威から日本
を守ることを使命として日本初の反射炉から、後に脚光を浴びる
アームストロング砲の製造、ついには蒸気船まで独力で作り上げ、
今聞けば驚く話ですが、幕末期の佐賀藩は300諸侯の中で間違いなく
No1の軍事力、技術力を擁していたようです。

そんな実力を擁しておきながら、望めば実力を行使してどの陣営に
組しても大きな発言力を持てたであろう佐賀藩は幕末最後の最後まで、
どの勢力にも肩入れしません。周囲はそんな閑叟(かんそう)を
『肥前の妖怪』と呼んでいました。

そして本当に倒幕の最終章、ここぞの局面で、閑叟は手塩に
かけて鍛え上げてきた最新鋭の兵器を装備した軍隊を新政府軍へ
貸与するわけです。当時の新政府軍にとって、佐賀の精鋭軍団と
その兵器は喉から手が出るほどにほしかったものだったのです…

書いてしまえばこんなものですが、このすごさが最近になって
しみじみ分かるようになりました。結局、佐賀藩は閑叟が実に
40年近く率いるわけですが、その間幕末動乱期にただの一人も
藩士を死なせるような混乱を生じさせていません。佐賀藩では
幕末流行の「志士」さえ必要なかったのです。たった一人、閑叟
が居れば事足りたわけです。そして見事に一人の犠牲者も出さず、
江戸から明治時代への佐賀藩の舵取りを行い、新政府にて佐賀を
4強の一つに配置したわけです。

ほれぼれするような芸術的な神業にさえ思えてきます。
藩士を死なせない、事を成すときリーダーによってその選択肢は
様々です。多くの犠牲を出した「薩長土」側からすると、閑叟の
手法に賛否両論あるかもしれませんが、江戸末期の佐賀の地に
閑叟という超一流のリーダーを持つことができたこと、そして
その偉業をこうして今感じることができることに感謝しつつ
この講を終えることにします。

最後に、閑叟は維新後すぐ明治4年にこの世を去ります。享年58。
維新政府の最大の難事業「廃藩置県」に道筋を付け、自身が佐賀
の地で40年追い求めた近代化、それを日本規模で行う新たな時代
を見ることなく……

その後続々と輩出される*佐賀出身の能吏(注釈参照)*の活躍は
割愛しますが、活躍するためのステージを人知れず準備してくれた
偉大な先人が、最初に井戸を掘ってくれた恩人がいたわけです。

(注釈)
佐賀県出身者の文部省直轄学校(主に旧帝大などの超難関高)に
入学する率は大正12年、昭和2年、昭和3年と全国一位。ただし、この
数字には当時佐賀県の第一級の秀才たちが進学する陸海軍省直轄学校
(陸軍士官学校、海軍兵学校など)への入学者の数字が省かれている
ため、本来はもっと抜きん出た数字になる。